スリランカ狂和国の誕生
水谷さんという人を語るには一冊の本が必要になる。
この人は本当に面白い経験をしている。
私は水谷さんの歴史を親族の次に知っている人物だと言っても過言ではない。
水谷さんが若かりし頃、北海道の海鮮流通業界にいた。
営業で北海道中を巡り流通のノウハウを学んだ。
その後東京に移り、流通と経済、さらには不動産に至るまで仕事をしながら様々な分野の勉強をしていた。
その後、水谷さんは自分の仕事を海鮮を主にした練り物にするか不動産にするかを悩み、結局札幌の場外市場で練り物店を構えることになる。
今では観光客で賑わう場外市場のオープンに伴いお店は繁盛した。
その頃、日本ではオイルショックが起きた。
トイレットペーパーや、ティシューなどが陳列棚からなくなるほどの異常ぶりを見せた中、かまぼこなどを扱う練り物屋にもその影響が及ぶ。
油の料金が高騰しているとのメディアの放送が、国民を奮いたたせ、練り物屋の仕入れ価格が3倍に跳ね上がる。
日本国民にもその報道が浸透した頃、実際には価格が高騰したのは1週間程度の話で、すぐに元の価格に戻ったことが事実であり、国民は疑いすらしなかった。
それを小売業は逆手に取り、元に戻った価格を消費者に伝えないまま、3倍に跳ね上がった価格を維持した。
よって水谷さんはもとより、すべての練り物業者は多大な利益を得ることになる。
そこに目をつけた練り物業者たちは工場を拡大し、北海道を飛び越え全国展開に目を光らせる。
しかし、水谷さんは違っていた。
儲けている最中、お店を完全に閉めたのだ。
周りの業者からは非難の声を浴びたが、当の本人は知る由もなかった。
他の業者が事業の拡大に投資している中、水谷さんはすべての財産を当時まだレートが安い「金の延べ棒」に変えた。
そして日本には200海里問題が起こる。
遠洋業業で魚を捕っていた漁船たちは、範囲を狭められ今までのような漁獲量を望めなくなっていった。
その頃、金の価値が跳ね上がったのを見て、水谷さんは30代の頃、約10年に渡り放浪の旅に出る。
お金がなくなっては日本に戻り、金を換金し、アジアを中心に着の身着のままの旅を続けていた。
インドを旅していた頃、ラジャスタン州でカレーに出会い、スリランカでスープ状のカレーに出会い、これは日本で流行るだろうと確信したのち、札幌市に「スリランカ狂和国」をオープンする。
見たこともないスパイスの虜になった札幌人たちは行列を作り出した。
それを見た水谷さんは「こんなに忙しいお店はやりたくないから、値段を1.5倍にすると言いだした。」
それでも客足は絶えず、結局飲食店ではありえないほどの多大な利益を得ることになる。
水谷さんは根っから旅好きだったため、お店の経営者になってもそのスタンスは変えなかった。
しかも、多大な利益を得ていたために、1月のお正月明けから3月頭までお店を閉め、その間はすべて「材料調達」という名の放浪に出かけていた。
それを見た人たちは、スープカレーというものはそれほど儲かるものなのかと思い、我も我もと水谷さんの元に弟子入りすることになった。それが今では有名な「らっきょ」「こころ」「デストロイヤー」「村上カレー」などである。
そして札幌市内ではスープカレーブームが起こる。
利益を得た水谷さんは以前勉強していた不動産に投資するようになり、カレー屋さんは権利ごと売り払っていた。
スリランカ狂和国の姉妹店である、アジアンスパイスも元々は水谷さんが直属で経営していたが、それも売り払った。
新しく変わった経営者の味が極端に落ちたため、お店は閉店せざる負えなかった。
そこに私たちがピンチョスとしてオープンしたのである。
私たちがオープンして3年間水谷さんのスープカレーを知る常連客たちの復活の声が止まなかった。
そして私は水谷さんのカレーを受け継ぐことになったのだった。
試作に試作を重ね、ラジャスタンカレーが誕生したのだった。
写真はラジャスタンカレー「0」
水谷さんが編み出した超辛口のカレーを私が進化させた最高傑作である。