料理の記憶 〜高級寿司屋〜
すすきのラーメン横丁の短期バイトが終わり、私はまた無職に戻りました。
私はこの2週間ですすきのという街を好きになっていました。当時まだ16歳だったけれど、ギラギラと騒ついた雰囲気、ヤクザ、客引き、酔っ払い、ホステス、混ざりあった匂いがまとわりつき、ここが札幌の中心部である事を誰もが疑わなかった時代です。
私はラーメン屋さんを辞めてから同じすすきのにあるお寿司屋さんで働く事になります。
では、そのお寿司屋さんの話し、どうぞお付き合いください。
このお寿司屋さんはススキノの中心部をにあり、あるホテルの地下に構えるお店です。今回はあえて名前を伏せますが、気になる人は直接私に聞きに来て下さい。
開業は私が入った頃ですでに10年は経っていたようですから、今でもあるなら40年近くはやっています。
先程も話したように当時のススキノは活気に満ちていて、人を交わしながら歩くのがやっとの頃。
一見目立たないお寿司屋さんも毎日のように忙しかったのを覚えています。
私は知人の紹介で働ける事になりますが、このお寿司屋さんはとても高級です。
バブルがはじけて数年が経っていましたが、まだまだ高級志向は消えていなかった時代です。
お寿司の値段表は一切なく、来るお客さんも社長さん、政治家、落語家などが多かったです。
私は1年ほど働いていましたが、結局ビールの値段すらわかりませんでした。
それもそのはず、全てのお店がそうではありませんが、お店はお客さんを見て値段を決めていました。
よって隣のお客さんとの値段が全然違うのです。特に高いのがアフターと言われるホステスの女性を連れた常連のお客様。
ホステスとグルではないか?と思うほど値段が跳ね上がる世界です。
どうしてホステスを連れた常連客が多く払わなくててはいけないのか?と聞いたところ「高いお店に連れてきてもらえた。」とホステスが喜ぶとの事。
16歳の私には到底分かりかねぬお話です。
このお店には登場人物が私を入れて4名います。
お店の長である「親方」
板場の花形「アキさん」
私の先輩「シンさん」
そして私です。
ホテルの地下にあるお寿司屋さん。この4人で繰り広げられる地下の世界がとても魅力的でした。
当時、光を浴びることなく1日が過ぎていくから私達は自分たちのことを「モグラ」といっていました。
知人が「アキさん」つながりで私をこのお店に入れてくれましたが、面接らしきものはまったくなく初日は「親方」の顔すら見かけませんでした。
色々な事を教えてもらいながら初日を終えようとしていたその時、一本の電話が鳴ります。
「タック。出てみろ。」
「はい!」
「もしもし○○寿司です。」
「おう!シンか?」
「だれだ?」
「はい。。え・・と今日から入った近藤と言います。」
「おう!そうか!シンかアキに変わってくれ。」
「少々お待ちください。」
電話を置く・・・
「シンさん。なんか変わってくれって言ってます。男の人です。」
「ああ。多分「親方」だ」
「もしもしお電話変わりました!」
「お疲れ様です!」
「はい!」
「はい!」
「ええ。」
「はあ。」
「そうですか・・・」
「わかりました。。。」
「それでは。。失礼します。お疲れ様です。」
「・・・・・・。」
電話を切る。
「どうしたんですか?」
私は少し落ち込んだ様子のシンさんに聞いてみた。
するとシンさん「おう。親方捕まったわ。」
「!?!?!?!?!?!?えええ~~~~~~~~~!!W?」
次回へ続く
料理の記憶 〜裏メニュー〜
前回の投稿に続き、ラーメン横丁にあるこのお店には「ドラム缶スープ」と書いてある。
その名の通り、ラーメンのスープはドラム缶のような大きさのなべで作っているのだ。
実際はドラム缶ではなかったと思うが、私の記憶が定かではない。
私の担当は、主にお皿洗いであった。
厨房の大きさは人がすれ違えないほど狭い。そして洗い場の横にそのドラム缶が置かれている。
約200杯とれる寸胴にはいつも最大火力でスープがぐつぐつ言っていて、とにかく熱い、暑い、アツイ!
黙っていても汗が沸いてくるような暑さの中、約8時間ほどの勤務時間。
いやでも痩せるシステムだ。
ダイエットをしたい人は是非ラーメン屋さんで働くといいだろう。
当時は札幌雪まつり期間で忙しいという事もあり、200杯のスープはあっという間になくなってしまう。スープが無くなり次第閉店となっているが、それでも毎日夜中の3時まで営業していた。
料理屋さんの特権というか何というか、いつも賄いラーメンを食べる事が出来た私は、お店に遠慮なく食べたい物を注文していた。たとえば「チャーシュー大盛りでトッピングにバターとコーン」と1200円以上のラーメンをタダで食べさせてもらっていた。
そんな中ある日、一人の常連さんらしき男性が来店。
「まいど~。」
「マスターいつものね。」
「はいよ」
そんな調子で会話が進む。
私はその時ある異変に気がついた。
ラーメンを作るスピードが以上に速いのだ。
「おまちー」
通常の半分くらいの時間で出来上がる。
さらに、そのラーメンを見てみるとスープが通常の半分くらいしか入っていない!?!?
何だ?
「うまいね~。やっぱりこれだわ~」
美味そうにラーメンをすする客。
「ここでしか食べられないからね~」
「イチサンゴは。」
「イチサンゴ???」
「何ですかそれは?」
「メニューに載っていない特製ラーメンだよ。」
「え!そんなメニューあったんですか!?」
「イチ・サン・ゴ」って何ですか?
「知らなかったのかい?」
「数字の1・3・5の事だ」
説明を聞くとつまりこうだった。
初代店主が旭川で店を構えた当初オープン、メニューは「しょうゆラーメン」しか置いていなかった。その中に記号ができたという。
1 麺かため
2 麺やわめ
3 脂多目
4 脂少な目
5 味濃い目
6 味薄め
という風に数字を選んで自分お好みのラーメンが頼めるシステムだった。
通常の味を好む人は何も言わないし、麺をかたくして欲しい人は余計な事は何も言わず「1」とだけ伝えていたそうだ。
メニューがシンプルだからこそ出来たシステムでお客さんも店主も簡単な「通し」だけで成り立っていた。
という事は「1・3・5」とは
麺がかためで味が濃い目で脂が多目と言う事になり、かなりごっついラーメンになる。が!?
ただの調整ではないという。
この「1・3・5」のバランスは普通のスープで作られるわけではなく、寸胴のスープの上澄みを使うと言っていた。
つまり、1日仕込む200杯の寸胴から5杯しか取れない幻のラーメンだった!
それだと味がクドイんじゃないのか!?
通常だとそう考える。
と言う事でまずは食べてみようとその日の私の賄いは「1・3・5」に決定した。
一口食べると驚く!
通常のしょうゆラーメンとはまったく違った味になっている!
確かに濃いラーメンだが、一度食べると病みつきになってしまうほどの美味さ。
今から約20年以上前の話だが今でも鮮明に味の記憶がある。
他のラーメン屋さんでは未だにお目にかかれない代物だ。
このスープを飲み干すには勇気がいるほど味が濃いので、苦手な人も沢山いるだろう。
普段の私の好みは薄味だが、どうしても年に一回は食べたくなるような味だった。
ここ数年このお店に行けてない事がとても残念だが、チャンスがあればいつでも行きたいと思っている。
この日から、私の賄いは「1・3・5チャシュー大盛りトッピングにコーン」がお決まりになった。
是非食べてみたいと言う人は、メニューにないが思い切って「1・3・5」下さいと言ってみよう。
きっと店主はにっこり笑って作ってくれるだろう。
料理の記憶 〜サインの歴史〜
すすきのラーメン横丁のお店で食べたことがある人は、有名人のサイン色紙がびっしりと壁に貼ってるのを覚えているだろうか。
私の働く天鳳にも有名人が数多く来ていて、年数の古い事により油やタバコのヤニで色あせた物もある。書いた人の中にはすでに亡くなった方もいるだろう。
好きな人から見れば宝の宝庫という事になるだろうし、ある意味では札幌観光の代名詞を決定づける看板となっている。
例えばラーメン横丁に新規オープンしてどれだけ現代風にオシャレを気取ってもサイン色紙が大して貼られていなければ、どうも味気なく感じてしまう。
食べに来たお客さんも
「おお~あれあの人だ。」とか「何書いているかよくわからんな。」などと色紙を楽しむ声が聞こえていた。
しかし、そんな中にも頭を抱えてしまうような問題もあったりする。
それは、サイン書きたがりの人で自分は有名人だと言って、サインを書いてあげる。などと自己アピール満載の人が多数いた。
たとえ店主がその人を知らなくても、ただ知らないだけで人気有名人かもしれない。ということがあるため、決して断りはせず一応書いてもらう事にしてると言っていた。
そんな中、やたらと体格のいい男性が2人やってきた。
ラーメンを注文したあと、一人の男が店主に「マスター。この人知ってるかい?」と隣の男を指して一言。
「え?」
「今日、初めて札幌に来たんだけどさ、テレビで見たことないかい?」
「う~ん・・・・。どこかで見たような・・・。」
「マスター。プロレス見るかい?」
「はあ。たまに・・プロレスラーの方ですか?」
「ガタイ見たらわかるだろ~。」
「おい。よせって。いいよ~。」と、もう一人の男
「そういえば・・・この間、試合に出てたような・・・」
「結構強いんだよ~。彼。」
「試合もバンバン出てるよ。」
「そうでしたか。ちょっと思い出せないですが、すみません。」
「まあいいよ。ほら!サイン書いてもらいなよ。」
「あっ!そうですね。お願いします。」
お店に常備してある色紙をとり出す。
私は誰なんだかさっぱりわからない。プロレスをほとんど見ていないけれど、当時と言えば向かいお店に長州力が来たとか、藤波辰巳との写真が飾ってあるなど、超有名なプロレスラーも当たり前のように来ていた。
「実は彼ね...」
「覆面レスラーのブラックタイガーなんだよ。」
覆面レスラーかい!
しかもブラックタイガーって何だ?
エビ?エビの事か!?
私の脳裏には黒い縞模様のマスクにヒゲが生えているのを想像してしまう。ただでさえプロレスラーを知らないのにマスク無しで言われても...と、とっさに色々なツッコミが出てくるが、声には出さなかった。
そして
自称ブラックタイガーはさらさらっとカタカナで「ブラックタイガー」とサイン。怪しすぎるサインが出来上がった。
ラーメン横丁にはそんな色紙がずらりと壁中に張られていると思うと、少し悲しくなった。
そんな中、天鳳に奇跡が起きた!!
私が働く少し前、天鳳では一大ニュースがあった。それは、当時人気絶頂だったグループ「B'z」の稲葉さんがプロモーション撮影をしたいと事務所から連絡があり、ラーメン横丁の中でも「天鳳」が選ばれたのだ。
曲名は「love me, l love you 」で当時CDを出せば必ずオリコン1位になっていたから、幅広い層にファンがいる。
その稲葉さんにサインをお願いしたところ、快く書いてもらえた。
偶然その色紙をみたファンが雄たけびをあげた!「キャー!!!稲葉さんだー!!」
店主は雄叫びに驚き
「どうしたんだい?そんなに興奮して?そんなに好きなのかい?」
話を聞いたところ当時、稲葉さんはサインを書かない人で有名だったらしく、ファンの中でも雑誌で見るくらいで実物に出会えたことに感動しているようだ。
「このサイン、写真撮ってもいいですか?」
「もちろんいいよ。」
使い捨てカメラ「写るんです」で何枚も撮る女性。その姿をみた店主は、「こりゃ宣伝になるな。大事にしなきゃ。」
厨房から取り出したサランラップで綺麗にコーティングし通りがかりでも見えるようにと、入り口に張って置いた。
インターネットも普及していない時代に、その話題はファンクラブを通し、南は九州、北は稚内まで日本全国からその色紙を一目見ようと、ファン達が押し寄せるようになった。
しかし、ファン達は入り口から写真を撮るだけで、肝心のラーメンは食べていかない人がほとんどだった。
私はそれを見かねて「ひどいですね~。食べていかないなんて」と店主に言うと店主は一言。
「いいんじゃない。ふふふ。」
ほとんどのファンが若い女性。店主はちょっと顔が緩んでいた。その後、店主は何かに気づいたように「よし!もっと宣伝しよう!誰でもわかるように。」
そこでまた厨房から取り出したのが黒いマッキー。
「え?まさか!?!?!??」
「ラップの上からだからいいだろ。」
「え~~~~~~~~~~~~~~!!」
「ビーズ」
と
決して綺麗とは言えない字でラップの上に店主が書いてしまった。
こうして稲葉さんと店主のコラボサインが出来上がった。 知ってか知らずかその後もファン達はそのコラボ色紙を無数に写真に収めていった。
当時の写真を持っている方ご一報下さい。
料理の記憶 〜すすきのラーメン横丁〜
前回に引き続きラーメン屋さんのお話。
と言っても、今回は別のラーメン屋さんのお話。
これは私が16歳の頃、ろくに勉強もせずにスレスレで入った高校は大して楽しくも無く、早々と辞めていた。
すぐに何かの仕事をする訳でも無くぷらぷらしていた時、知人からアルバイトのお話あった。
札幌雪祭りの期間だけ、アルバイトしないか?
それはすすきのラーメン横丁の短期バイトでした。
当時、すすきのラーメン横丁と言えば札幌観光の代名詞とも言える場所で、全国各地から観光客が押し寄せ、特に雪祭り期間中ともなれば大変な賑わいをみせている場所だ。
札幌市に現在ほど際立ったラーメン屋さんがなかった時代に、あそこに行けば札幌ラーメンが食べられると言われていた。
札幌市民からすれば、観光客目当てのラーメンでしかない。と敬遠されつつある状態だったが、それでもある程度の人通りはあったと思う。
数多くのラーメン店が並びあい、正統派ラーメンを出す店もあったが、ホタテエビカニラーメンという北海道民でさえ食べた事のないようなラーメンもある。
色々と個性溢れるラーメンの中でもさらに際立つお店。「天鳳(てんほう)」
ドラム缶スープのお店!天鳳という看板を掲げていたお店で私はアルバイトをすることになったのだ。
しかし、いきなり問題発生。
ラーメン横丁と言えば夜中営業は当たり前で、下手すれば朝まで営業しているお店もあったりして、当時私は16歳。
未成年が働いていい時間帯ではなかった。
そこで店主は・・・
「近藤君、老けてるから大丈夫。」
「・・・・。」
問題解決!
幸いにも私は老けていたのです!ちくしょー
このお店は今の店主の先代、創業者でもある社長がもともとお店を切り盛りしていた。
発祥は北海道の旭川ラーメンから来ているらしく、今でこそ有名な話だが旭川ラーメンと言えば昔から「しょうゆラーメン」が基本だった。
よってオープン当時の天鳳のメニューには「しょうゆラーメン」しかなかった。
この社長が旭川から札幌に来てラーメン横丁にお店を構える時、同業者の皆さんに、「ここでやるなら味噌と塩も置かなきゃだめだよ!」
「観光客が多いんだからさ、しょうゆラーメンは札幌じゃはやんないよ。」
などと、散々言われたようで、社長はしぶしぶ他の味のラーメンも作る事になった・・・
しかしそこは社長が根っからの頑固親父だったようで、壁に貼ってあるメニュー表を見てみると、
「しょうゆラーメンのお店」と大きく書いてあり、他のメニューは
みそ しお
冗談抜きにこのぐらい小さく書いてあったと昔を知る古い常連さんは笑っていた。
それでもやはり観光客の気持ちは違い、札幌と言えば味噌ラーメンという意識が強く、そんなメニューを見ても
「おっちゃん、味噌一つね~」
などと軽く言われてしまう。
そこで社長の一言。
「そんなもん作れるか!!!!」
とお客さんに言ってしまったようです。
「しょうゆ以外は他の店で食ってくれ!」とそのお客さんを帰す始末。
現在だと考えられないお店ですが、はっきり言って「粋」だな。と。
私は大好きです。
その後、東京にお店を出すと言って札幌のお店は別の人に任せて行ったようで、結局私は会えずじまいだったが、一度でいいからお会いしたかったな~と今でも思う。
私は、その後引き継いだ2代目店主の時代に入った。
たった2週間のアルバイトだったが物凄く記憶に残る濃い日々を送るのだ。
この続きはまた次回
料理の記憶 〜初めてのアルバイト〜
人生で初めてアルバイトをした「ラーメン屋」さんの話
札幌中心部の狸小路には当時キクヤ楽器の地下に一軒のラーメン屋さんがありました。
その当時私は15歳で中学校卒業したばかりだった。
高校の入学式も済んでいないのに、アルバイトに憧れていて、
春休み期間中、毎日アルバイト募集の広告をチェックしていた。
そんな気持ちも強くあっという間に初面接、初履歴書、初アルバイトが決まった。
しかし
理想と現実は異なり、私のワクワクがクタクタに変わる。
ラーメン店は当時かなり流行っていたらしく、オープン間もなくあれよあれよと満席状態。
右も左もわからない私にとっては1日があっという間に過ぎて行ったものです。
やる気で入った頃とは違い、すでにやる気なし。
仕事もろくに出来ず、いつも店長とケンカばかりでした。
今、考えればくそ生意気なガキです。
私の仕事はスープがなみなみ入ったラーメンどんぶりを熱いのを我慢しながらお客さんの元へ持っていくのが精一杯。
ある日店長が「そろそろ片手で一個ずつ持て!」
というので、挑戦してみたところ腕はぷるプル。指はあつあつ。
危なっかしい感じ・・・・
アワワ、アワワ、
案の定・・・
お客さんに向かってジャバ~!!っとこぼしてしまいました!
そのお客さんバイクで来ていたらしく全身ライダースを着ていて
そこにラーメンかぶったものだから、熱いし、くっつくし!!!!
「あちーーーーーー!!!!」
「なにすんだオメー!!」
「あちゃー。やっちゃった。」
「あちゃーじゃねーよ!!店長出せ!!」
今でも思うのだが、なぜあの時ちゃんと謝れなかったのか。
結局、私はたいした反省もせず。つっ立っていた。
そんな私を見かねた店長は、即座に私をクビにしました。
私のバイト初体験はこうして幕を閉じたのです。
決してほめられる様なものじゃありません。
色んな事が頭の中で交差していたのを覚えています。
その後1年もしないうちにそのお店は潰れてしまいました。
何も覚える事も感じる事もしなかった私に、大きなきっかけを与えてくれたお店ですが、今でもあのライダースの人には申し訳なかったな~と思います。
料理の記憶 〜衝撃の味〜
根源
記憶の深
どんな料理よりも体が覚えている出来事
当時私は10歳かそこらで、中学生だった長男が私の見ている中フライパンを振るう姿。
好奇心に溢れる私はワクワクしていた。
「なにしてるの?」
「玉子焼きだよ。」
はじめて見る長男の料理。それまで兄弟の誰かが料理をする事は無く、玉子焼きを自分で作れる事をはじめて知った。
「いいか、フライパンを煙が出るまで温めるんだ。」
私よりも知識豊富な長男は自慢げに火をともす。
見る見る煙が立ち昇るフライパンに卵を入れた時、私を未知の世界へ誘った
一瞬で火が通った卵を見て
「よし、ごはんも入れちゃおう!」
「おおぉ。すげー」
悠々とフライパンを回しながらあれもこれもと入れ始める長男。
「ちゃーはんか!?」
「たっくも食べるか?」
「うん。」
どんどん具材に火が入り、茶色く変わっていく。
私はどんな事よりも好奇心が先。
チャーハンとはきっとあの味だという今まで食べた経験から得た感覚。
美味しいものは自分で作れるんだという発見。
色んな事が私を興奮させた。
「よし。できた!」
「たっく。全部たべていいよ。」
「え~!ほんとに!!」
「おう。食べてみ。」
「やった~」
両親以外が作った初めての手作り料理
そこには純粋な気持ちしかない。疑う余地も無い。
大きな口をあけて一気に食べる
口の中で広がる苦味。
固まった塩が舌を刺激する。
もさもさのご飯と黒い卵。
一瞬の出来事で我を見失う。
未知の体験が体中の機能を奪う。
理解しきれない事に固まる体からでた一声
「まじぃぃい」
「あははははははははは。」
笑い声と共に長男の姿は消えていた。
その衝撃で
私は手が震えて二口目には届かなかった。
たった一口の記憶が今でも鮮明に覚えている
セピア色にならないのはなぜだろう。
スリランカ狂和国の誕生
水谷さんという人を語るには一冊の本が必要になる。
この人は本当に面白い経験をしている。
私は水谷さんの歴史を親族の次に知っている人物だと言っても過言ではない。
水谷さんが若かりし頃、北海道の海鮮流通業界にいた。
営業で北海道中を巡り流通のノウハウを学んだ。
その後東京に移り、流通と経済、さらには不動産に至るまで仕事をしながら様々な分野の勉強をしていた。
その後、水谷さんは自分の仕事を海鮮を主にした練り物にするか不動産にするかを悩み、結局札幌の場外市場で練り物店を構えることになる。
今では観光客で賑わう場外市場のオープンに伴いお店は繁盛した。
その頃、日本ではオイルショックが起きた。
トイレットペーパーや、ティシューなどが陳列棚からなくなるほどの異常ぶりを見せた中、かまぼこなどを扱う練り物屋にもその影響が及ぶ。
油の料金が高騰しているとのメディアの放送が、国民を奮いたたせ、練り物屋の仕入れ価格が3倍に跳ね上がる。
日本国民にもその報道が浸透した頃、実際には価格が高騰したのは1週間程度の話で、すぐに元の価格に戻ったことが事実であり、国民は疑いすらしなかった。
それを小売業は逆手に取り、元に戻った価格を消費者に伝えないまま、3倍に跳ね上がった価格を維持した。
よって水谷さんはもとより、すべての練り物業者は多大な利益を得ることになる。
そこに目をつけた練り物業者たちは工場を拡大し、北海道を飛び越え全国展開に目を光らせる。
しかし、水谷さんは違っていた。
儲けている最中、お店を完全に閉めたのだ。
周りの業者からは非難の声を浴びたが、当の本人は知る由もなかった。
他の業者が事業の拡大に投資している中、水谷さんはすべての財産を当時まだレートが安い「金の延べ棒」に変えた。
そして日本には200海里問題が起こる。
遠洋業業で魚を捕っていた漁船たちは、範囲を狭められ今までのような漁獲量を望めなくなっていった。
その頃、金の価値が跳ね上がったのを見て、水谷さんは30代の頃、約10年に渡り放浪の旅に出る。
お金がなくなっては日本に戻り、金を換金し、アジアを中心に着の身着のままの旅を続けていた。
インドを旅していた頃、ラジャスタン州でカレーに出会い、スリランカでスープ状のカレーに出会い、これは日本で流行るだろうと確信したのち、札幌市に「スリランカ狂和国」をオープンする。
見たこともないスパイスの虜になった札幌人たちは行列を作り出した。
それを見た水谷さんは「こんなに忙しいお店はやりたくないから、値段を1.5倍にすると言いだした。」
それでも客足は絶えず、結局飲食店ではありえないほどの多大な利益を得ることになる。
水谷さんは根っから旅好きだったため、お店の経営者になってもそのスタンスは変えなかった。
しかも、多大な利益を得ていたために、1月のお正月明けから3月頭までお店を閉め、その間はすべて「材料調達」という名の放浪に出かけていた。
それを見た人たちは、スープカレーというものはそれほど儲かるものなのかと思い、我も我もと水谷さんの元に弟子入りすることになった。それが今では有名な「らっきょ」「こころ」「デストロイヤー」「村上カレー」などである。
そして札幌市内ではスープカレーブームが起こる。
利益を得た水谷さんは以前勉強していた不動産に投資するようになり、カレー屋さんは権利ごと売り払っていた。
スリランカ狂和国の姉妹店である、アジアンスパイスも元々は水谷さんが直属で経営していたが、それも売り払った。
新しく変わった経営者の味が極端に落ちたため、お店は閉店せざる負えなかった。
そこに私たちがピンチョスとしてオープンしたのである。
私たちがオープンして3年間水谷さんのスープカレーを知る常連客たちの復活の声が止まなかった。
そして私は水谷さんのカレーを受け継ぐことになったのだった。
試作に試作を重ね、ラジャスタンカレーが誕生したのだった。
写真はラジャスタンカレー「0」
水谷さんが編み出した超辛口のカレーを私が進化させた最高傑作である。